こんにちは。文字の海を漂流中のもじうみです。
オスカー・ワイルド作の戯曲「サロメ」。
短くてとっつきやすい作品ですが、予備知識なく読むのはもったいない!
ということで、ざっくりとしたあらすじの紹介と、ぼくの感想や意見を含んだじっくり解説をお届けしたいと思います。
ネタバレを気にしない人は、一読の前にぜひご参照くださいませ。
こんな人に向けて書いてます
・読む前にあらすじをざっくりと頭に入れておきたい人
・読んだけどよく意味が分からなかった人
・吹奏楽でのサロメの曲を演奏をした人
目次
サロメのあらすじ
約2000年前、古代イスラエルのヘロデ朝時代。
ヘロデ王は自分の兄である前王を殺し、妃を奪って王位に就いた。
その妃の娘、サロメは王女として迎えられたが、ヘロデ王から常時いやらしい目で見られており、嫌気がさしていた。
ある宴の晩、宴から抜け出したサロメは牢屋に囚われている預言者ヨカナーンの声を聴き、彼に興味を抱く。
番兵の指揮者(シリアの若者)をたらしこんで牢屋からヨカナーンを引き出させると、彼の容姿とシブい声に一目惚れ。「私、あなたにキスするわ!」と猛アプローチ。
しかし預言者ヨカナーンは取り付く島もないばかりかサロメとサロメの母(王妃ヘロディア)を思いっきりディスった挙句、自ら牢屋へ帰ってしまう。
ヘロデ王は、いつの間にか宴から抜け出したサロメをみつけると、サロメに踊りを踊れとせがむ。乗り気ではないサロメに、踊ってくれたらなんでも好きなものを褒美にとらせると約束する。
それを聞いたサロメは、妖艶な衣装に着替え、「7つのヴェールの踊り」を踊る。
すっかり大満足したヘロデ王は、褒美は何がよいかとサロメに尋ねる。するとサロメは「預言者ヨカナーンの首が欲しい」と言う。
ヨカナーンの力と、周囲の動揺を恐れるヘロデ王はこれを受け入れることができない。
他の物なら何でもやる、と色々な宝物を引き合いに出すがサロメは聞く耳を持たず、ヨカナーンの首を欲しがる。
根負けしたヘロデ王は兵士に命じてヨカナーンを殺害し、その生首をサロメに与える。
サロメはヨカナーンの首に向かって自らの愛を滔々と語り、その口唇に口づけをする。
ひとすじの月の光がサロメの身体を照らした時、ヘロデ王は兵士に命じて、サロメを殺させる。
≪≪完≫≫
「サロメ」は新約聖書の一節を題材にした戯曲
元になる話は新約聖書(以下、聖書)のマタイ福音書の14章と、マルコ福音書6章に記されています。
洗礼者ヨハネが殺害される、聖書でも重要なシーンです。短いエピソードですのですぐに読めますよ。
ただし、聖書の内容イコール戯曲サロメの物語ではありません。
ここら辺については改めて後述します。
主な登場人物の紹介
物語の理解を深めるために、作中にないエピソードも交えてご紹介します。
ヘロデ王
古代イスラエル ヘロデ朝の王。
ローマ従属国のナバテア王国の娘と政略結婚していたが、異母兄の妻(ヘロディア)と恋仲に。
ちなみに呆れた妻は実家のナバテア王国に帰ってしまい、怒ったナバテア国王に戦争をふっかけられて惨敗。甲斐性無しですね。
その後異母兄を殺し、その妻ヘロディアを妃に迎える。ヘロディアの娘(サロメ)も一緒に迎えるが、終始イヤラシイ目で見ている。
ヘロディア
ヘロデ王の妃で王妃様。
もともとヘロデ王の異母兄と結婚していて、娘サロメをもうけていた。その後ヘロデ王(=夫の異母弟)と恋仲になり、離婚。
離婚後、ヘロデ王(=前夫の異母弟)と結婚して王妃に。この辺のいきさつから預言者ヨカナーンに相当ディスられており、彼の存在が邪魔。
サロメ
主人公。王妃ヘロディアの実娘。ヘロデ王の義理の娘。
義理の父であるヘロデ王にイヤラシイ目で見られており、うんざりしている。
自分を袖にした預言者ヨカナーンにキスをするため、王様に殺させるサイコパスな女の子。
ヨカナーンに会おうと番兵の指揮者(シリアの若者)を色仕掛けでたらしこんだり、目的達成のためにエロティックな衣装とダンスで王様(義理の父)を魅了するなど、処女とは思えない相当な魔性の女。
ヨカナーン
預言者。
ヘロデ王とヘロディアとの結婚(=異母兄の妻との結婚)のことを快く思わず、諫言したために牢に囚われている。
登場早々に脈絡のないことを口走り怪しい人感満載。一見意味不明なセリフは聖書参照のこと。その正体は洗礼者ヨハネ。
第一の兵士が語る彼の姿は、マタイ福音書3章にある洗礼者ヨハネの姿そのもの。
王の命令により、彼に会うことは何人たりとも禁止されている。
ヘロデ王はヨカナーンのことを恨んでもいるが、彼が聖人であること、正しい人だという事も正しく認識しており、また影響力の大きな人物であるために処刑しかねている。
彼がサロメの願いにより殺され、生首にキスされる場面が物語のクライマックス。
シリアの若者
兵隊の隊長(指揮者)。
名はナラボートだが、もっぱら「シリアの若者」と呼ばれている。
良い青年だが、時代・境遇・王女サロメなど自分を取り巻くすべての物事に翻弄され、不幸な最後に見舞われる悲劇な運命の持ち主。
もともと彼の父はシリアの王だったが、ヘロデ王に追い払われ、母は奴隷にされた。彼自身はヘロデ王から一目置かれ、兵隊の隊長(指揮者)として雇われている。
サロメに想いを寄せている。ことあるごとにサロメに熱い視線を送っているため周囲にはバレバレだが、本人も隠す気はないのかもしれない。
ヨカナーンを牢屋から引き出すようサロメに請われるが、禁止事項のため思いとどまるよう必死に説得する。結局陥落し、ヨカナーンを牢屋から出し、サロメと引き合わせてしまう。
サロメを味わうポイント5つ
見どころシーンその1。サロメの情熱的なラブコール
兵士に連れられて古井戸の牢屋から出て来たヨカナーン。
おっかなびっくり近づくサロメですが、一瞬にして恋に落ち、圧巻のラブコールを繰り広げます。前半の一番の盛り上がりポイントです。
サロメは情熱的に、盲目的にヨカナーンの声を、白い肌を、黒い髪を、赤い口唇を褒めたたえます。
(中略)お前の体が愛おしい。お前の体は、一度も鎌の刃の振るわれたことのない、草原に咲く百合の花のように白い。
お前の体は、山々に降り積もった雪、そう、ユダヤの山々に降り積もって、谷へと落ちてゆく雪のように白い。
アラビアの女王の庭に咲く薔薇だって、お前の体ほどには白くない。アラビアの女王の庭に咲くその薔薇だけじゃなくて、木々の葉をざわめかせる曙の日脚も、海の乳房に重ねられる月の乳房も、……何もかも、この世の中で、お前の体ほど白いものなんてない。
―――お前の体に触らせて!
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (pp.20-21). 光文社. Kindle 版
そしてとどめの一言。
お前の口唇にキスするの、ヨカナーン。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.23). 光文社. Kindle 版.
シリアの若者はいたたまれなくなって自殺、周りは大騒ぎ。
ヨカナーンも呪詛を吐きながら自ら古井戸の牢屋に戻っていきますが、サロメは全く意に介せず、あくまでも彼の口唇を欲します。
きわめて演劇的な(演劇ですけど)、前半の一番の盛り上がりポイントです。
サロメの情熱的で恋は盲目まっしぐらなセリフをぜひお楽しみください。
見どころシーンその2。狂気のクライマックス
首切り役人が銀の楯に載せてヨカナーンの首を持って牢から上がってくると、サロメはその首を引っ掴み、歓喜に震えます。
ああ!ヨカナーン、お前はその口唇に、キスさせてはくれなかったわね。でも、いいの!わたし、今からそこにキスするのよ。
熟れた果物を囓るみたいに、歯で口唇を噛んであげる。そう、わたし、お前の口唇にキスするの、ヨカナーン。
(中略)
どうしてお前はわたしを見てはくれなかったの、ヨカナーン?もし見てくれてたら、お前はわたしに恋をしてたはずよ。
わたしにはよくわかってる、お前がわたしに恋をしたはずだって。愛の神秘は、死の神秘よりも大きいの。人はただ、愛だけを見つめているべきなのよ。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (pp.53-55). 光文社. Kindle 版.
・・・。この情熱が自分や知人に向けられたと思うと恐怖でしかないですね。
殺させたこと後悔を微塵も見せず、とうとうヨカナーンを手に入れた達成感に酔いしれるサロメ。
ヘロデ王はすっかりタジタジ。怖くなったヘロデ王は宮殿に逃げ込みます。
(中略)マナセ、イサカル、オジアス、松明を消せ。わしはもう、何も見たくない。わしは何からも見られたくない。火を消せ。
月を隠せ!星々もだ、隠せ!宮殿に身を隠すぞ、ヘロディア。わしは恐くなってきた。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.56). 光文社. Kindle 版.
そして松明が消え、月も星も雲に隠れ、舞台は真暗に。その暗闇の中で、とうとうサロメはヨカナーンの首にキスします。
ああ!わたし、お前の口唇にキスしたよ、ヨカナーン。お前の口唇にキスした。苦いのね、お前の口唇って。血の味なの?
……ううん、ひょっとすると恋の味なのかも。恋って、苦い味がするって、よく言うから。……でも、それが何なの?
何でもないことよね?わたし、お前の口唇にキスしたのよ、ヨカナーン、お前の口唇に、わたし、キスした。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.56). 光文社. Kindle 版.
そんなサロメをひとすじの月の光を照らして・・・
衝撃の結末が淡々と語られ、あっけなく幕が閉じます。
月の描写に注目!月は心を映す鏡です。
ヘロデの宮殿の宴会場を見下ろす大きなテラス。兵たちは、その手すりに肘をかけている。
右手には巨大な階段。左奥には古い水溜があり、緑に変色した青銅の壁が囲っている。
月明り。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.8). 光文社. Kindle 版.
この冒頭から終盤まで、ある一瞬(しかも決定的な一瞬)を除いて、月が舞台を照らし続けています。
月を見上げて各々異なる印象をいだく登場人物たち。ある者は不吉な予感を、ある者は純白な処女性を、またある者は愛しい人を重ね合わせて。
それぞれ異なった月の見え方に彼らの心理状態が色濃く表れています。ここを押さえておくと物語がすんなりと入ってきます。超注目ポイントですよ。
科学が進み、人類がその地に降り立つ今でさえ、人々の心を惹きつけてやまない月。
他の星々と一線を画すその大きさ、そして刻々と形を変えてゆく姿は、昔の人々にとっては神秘そのものだったことでしょう。
「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。」とはカエサルの名言のひとつですが、ここでは月がまさにそれ。
月が、自分の見たいもの、あるいは自分の潜在意識が投影されたものに見えてしまってるんでしょうね。
ちなみにカエサルはこの物語と同時代の人物。本人は登場しませんが、彼の使者もヘロデ王の宴に参加しています。
とは言え、現代人の我々でさえ、そんな感覚を月に宿している気もします。
普段は気にも留めませんが、感傷的な気分になると、ふと月を眺めたりしませんか?
少なくとも小説等の世界においてはそんなシーンが定番である気がします。
月は、まるで夜空に浮かぶ鏡みたいですね。自分の心しか映りませんけどね。
ちょっと話は飛びますが、神社の本殿、拝殿の奥にはよく鏡が祀られていますよね。
太陽神の天照大神を表しているという解釈がポピュラーですが、「鏡(かがみ)から我(が)を取り去ると神(かみ)になることから、我(私利)を取り去りましょう」とか、「神のなかには我(自分自身)も含まれているんですよ。」みたいな解釈の仕方もあります。
ちょっと通じるものがあると思いませんか?
話は戻りまして。
終盤、クライマックス中のクライマックス。サロメとヨカナーン(生首)とのキスシーン。
オペラグラスでガン見必死のその一瞬。月が雲に覆われて姿を消し、舞台は完全な闇に。
幕中、月が姿を消すのはなんとよりにもよってこの決定的な一瞬のみ。
深くないですか。天才的演出じゃないですか。
とうとうヨカナーンの口唇を奪ったサロメが恍惚のセリフを口にするとき、再び月光が彼女を照らします。
2000年前のストリップ? 7つのヴェールの踊りとは?
ヘロデ王に踊りを請われたサロメは、奴隷に香料と七つのヴェールを用意させ、サンダルを脱がさせて「七つのヴェールの踊り」を踊ります。
聖書の記述では、このシーンのダンスには特段に言及されておらず、特定の名前も付いていません。
「七つのヴェールの踊り」という名称と演出は作者のオスカー・ワイルドの創作ですが、実はまったくの彼のオリジナルというわけでもないんですね。
オスカー・ワイルド以前にも、様々な芸術家たちによってこの物語は題材とされていました。
そして既にサロメのイメージが「女性の欲望の権化」というものになっていたそうです。
そしてアーサー・オーショネシー氏の詩の中にヴェールを纏って踊るサロメの描写もありました。
こういった先行者の影響をうけたオスカー・ワイルドは、サロメにヴェールを「重ね着」させることで、(作中に具体的な記述はありませんが)これを一枚一枚脱ぎ捨てられていくという妖艶なプロセスを想起させているのだそうです。
作中ではあっさりと描かれていますが、実は非常にセクシーなシーンというわけです。
愛しいヨカナーンの首を得るためとはいえ、処女であるにも関わらずだいぶ攻めてますね。
何も知らないヘロデ王もさぞかしご満悦だったでしょう。
ちなみにオーブリー・ビアズリーによる有名な挿絵は、「腹踊り」というタイトルだそうです。
日本人は腹踊りと聞くと、おへそ周辺に顔を描いて踊るアレを想像してしまいますが、世界標準的な認識ではベリーダンスを指します。
オスカー・ワイルド自身もこの挿絵がいたくお気に入りだったようです。
「7つのヴェールの踊り」は、現代でも、踊りの題材として広く用いられています。
Youtubeにも沢山載ってて楽しいですよ。
サロメは悪女か?
聖書の中の、本当のサロメ
サロメのサイコパスで魔性の女キャラがこの作品の大きな魅力の一つであり、人々の心をを惹きつけるゆえんでもあります。
では物語の原典ともいえる聖書のなかでのサロメはどんな感じかというと・・・
☆☆☆
ヘロデ王が宴会を開催。サロメが踊りをおどり、ヘロデ王とその客を喜ばせる。
余は満足じゃ。褒美は何が欲しいかの?何でもやる。国の半分でもやる。
サロメ、中座して母へロディアのもとへ。
お母様、ご褒美は何をもらいましょう?
ヨハネの首もらっとけ。
はーいお母様。
サロメ、ヘロデ王の前へ戻る。
ヨハネの首ください。銀の盆に載せてね。すぐね。
ガビーン
サロメ、首もらう。
サロメ、首を母に渡す。
以下、出番なし。
☆☆☆
あれれ、なんか全然違いませんか。
むしろ、無知で無欲な女の子って印象じゃありませんか?
実は、マタイ福音書でもマルコ福音書でも、サロメに関する記述は数行のみ。人物像に迫る記述は一つもありません。
まとめると、
・そもそも聖書では「サロメ」という固有名詞すら無く、「へロディアの娘」あるいは「少女」という記述のみ。
・洗礼者ヨハネ(戯曲サロメの中では預言者ヨカナーン)に惚れもせず、したがって口説くこともない。
・王にイヤラシイ目で見られているわけではない。
・王の前で踊りはするが、ことさら妖艶な踊りを踊ったという記述はない。
・洗礼者ヨハネ(戯曲サロメの中では預言者ヨカナーン)の首を所望したのは確かだが、それは母へロディアの要望によるもの。
・王の命令で殺される場面はない。
「ユダヤ古代誌」という文献から、へロディアの娘=サロメということは確認されています。
しかし、それ以外の、魔性の女的な要素はまったくの創作なのです!
戯曲サロメはあくまでも聖書の物語を題材にした、演出の加わった世俗的な芸術作品なのですね。
サロメは実在した人物として世界的に認識されています。
故人の名誉に関わることですので、この記事を読んで下さった皆さんにはこのことは強調させていただきたい部分です。
なぜサロメは魔性の女になった?
サロメは洗礼者ヨハネの死に直接かかわった人物であり、古くから広く知られていました。
王の前で踊る姿やヨハネの首を持つ姿など、中世以前の絵画も数多く残っています。
そして近世、デカダンスの流行のなかで、彼女の首を欲するという異常性は詩や戯曲の恰好のモチーフとして多くの作品に登場します。
さまざまな芸術家・作家たちによる演出、そしてそこに影響を受けた更なる演出という創作活動の末にサロメの悪女的人物像が定着してしまったのは、「7つのヴェールの踊り」のところで触れたとおりです。
物語に正確性を期するのであれば、聖書から一文たりとも抜き差ししないのが一番です。聖典を冒涜しない意味でも。
しかし現実問題として、「作品」として世俗に放つのであれば、エンターテイメント性がなくては見向きもされませんよね。
たとえ純粋におのれの芸術的インスピレーションを具現化した作品であるとしても、魅力的な「ヤマ場」「見せ場」があってこそ、世間はアッと驚き、良くも悪くも注目と評価を集めるものです。
だからある程度の、時には大胆な創作・演出が後世に残るのは避けることができないんですね。
少女が踊りの対価に大の男の生首を求めるという、原典からしてセンセーショナルな事件。
そこに演出として彼女の狂気的な欲求を加えれば、これはもうエモーショナルでスリリングな、なんとも芸術家の創作意欲を掻き立てる題材じゃありませんか。
影の黒幕。本当の悪女は・・・
芸術家たちの創作活動によってキャラ変してしまったサロメですが、じつは母ヘロディアの存在が色濃く影響しています。
重複してしまいますが、ヘロディアの人物像をもう一度おさらい。
へロディア
・ヘロデ王の妃で王妃様。
・もともとヘロデ王の異母兄と結婚していて、娘サロメをもうけていた。その後ヘロデ王(=夫の異母弟)と恋仲になり、離婚。
・離婚後、ヘロデ王(=夫の異母弟)と結婚して王妃に。この辺のいきさつから預言者ヨカナーンに相当ディスられており、彼の存在が邪魔。
実はヘロディアは、この人物設定そのままで聖書に登場しています。
そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
マルコ福音書6章(出典:wikisource)
夫の弟と不倫。そして兄と離婚して今度は弟と結婚。
王と王妃の所業ゆえ周囲の人間は誰も表立って文句は言いません。
しかし時の人格者たる洗礼者ヨハネは、この道義上許されざる行為を堂々と非難します。
そして彼は捕らえられ、牢に繋がれます。
上で引用したとおり、もともとのヨハネ殺害の動機はへロディアの怨恨だったのです。
聖書の中では、ヘロデ王に褒美を申し出られたサロメは、母ヘロディアに何を貰ったらよいかと伺いを立てます。
そしてヘロディアは、ここぞとばかりにヨハネの首を要求したのでした。
もともとのヨハネの死因は、そして本当の悪女、今でいう毒女は母へロディアの方だったんですね。
このへん、聖書と本作のストーリが微妙に違ってわかりずらい箇所なので、以下にまとめます。
聖書の記述
サロメ、ヘロデ王と客人の前で踊る。
ヘロデ王、サロメの踊りに満足し褒美を申し出る。
「何でもやる。国の半分でも。」
サロメ、王の前から中座。母のもとへ相談。
何をもらいましょう?
ヨハネの首もらっとけ
サロメ、再び王の前へ。
ヨハネの首ください。
ガビーン
ヘロデ王逡巡するも、結局ヨハネの首泣き別れ。
ヨハネの生首、サロメの手へ。
↓
ヨハネの生首、サロメから母の手へ
以上、聖書の記述
続いて、戯曲サロメの記述。
ヘロデ王、サロメに踊りを請うもサロメ渋る。
↓
ヘロデ王、踊ったら何でも褒美をやると約束。
↓
サロメ、「何でも」をしつこく確認。王の言質取る。
↓
サロメ、セクシーなダンスを踊る。
↓
余は満足じゃ。褒美は?
ヨカナーンの首。
ガビーン
サロメ、よう言うた!
↓
ヘロデ王逡巡するも、結局ヨカナーンの首泣き別れ。
ヨカナーンの生首、サロメの手へ。
↓
サロメ、愛のおたけび&生首にKISS
↓
ヘロデ王、サロメの行為におじけづく
↓
サロメ、王の命令で衛兵に殺される
以上、戯曲サロメの記述
もともとヘロディアの怨恨だったヨハネ(作中ではヨカナーン)殺害の発端が、なんとサロメの狂気的な愛の所以にすり替わっていますね。
これは本作発祥の変更ではなく、その前の別の芸術家たちの創作の時点で既にこういう流れが定着しています。
しかもしかも、ヨハネへの恋という演出は、一番最初はヘロディアに付与されたエピソードだとか。
そのヨハネへの恋という演出が純潔な処女であるサロメへと転嫁されたことで、ストーリーとしてはよりセンセーショナルで刺激的なものになってゆくのでした。
聖書中の少女サロメにしてみれば母の罪と欲をすっぽりと被せられて、いい迷惑としか言いようがありません。
ちなみにへロディアを語るうえで個人的に注目しているのは月についての彼女の一言。
前述の通り、作中誰もが月について色々感じて一喜一憂しているにも関わらず、この人だけは
月はただ、月のように見える。それだけです。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.25). 光文社. Kindle 版.
一蹴。鉄の女ですね。
そもそも作者のオスカー・ワイルドは、月に対しては非常に思い入れがある人で、彼のほかの作品でもしょっちゅう月が登場します。
彼の作品では月の描写は見どころの一つなのです。
そのワイルド氏をして月になんの感慨も持たせないあたりに、彼のへロディア像の一端を垣間見ることができる気がします。
ちなみに最終的にヘロデ王が滅ぶ原因もへロディアである、というエピソードもありますが、作中には関係がありませんのでここでは割愛。
一見意味不明なヨカナーンのセリフの意味は
実は彼のセリフの意味不明な部分は、聖書に記されている内容のことが多いです。
最初ぼくは全く予備知識無し、知っているのは作品名のみという状態で読みました。
そんな中一番理解不能だったのが、預言者ヨカナーンのセリフの数々。
王妃ヘロディアを罵倒しているのは文脈から見て取れるのですが、時代背景をよく知らないぼくには全くの意味不明。
しかも訳注の無い本だったので、結局理解するのを諦めてしまいましたorz
ですがぼくにとって意味不明だっただけで、キリスト教圏の読者には逆にうなずける部分が多いのかもしれませんね。
そしてこの作品がより一層味わい深いのでしょうね。
ぼくのように聖書の知識のない方は、光文社発行の平野啓一郎氏訳の文庫本をぜひ。
ふんだんに訳注が載っているのでめちゃくちゃおすすめです!
主は、来られた!人の子は、来られた!ケンタウロスは川に身を隠し、セイレンは川を去って、森の木の葉の下に身を横たえた。
ワイルド. サロメ (光文社古典新訳文庫) (p.14). 光文社. Kindle 版.
ヨカナーンの第一声ですが、「人の子」って新約聖書に精通する人たちの中ではメシアのことなんだそうです。
知らんがな。
本作以外におけるサロメのエピソード
超大女優もサロメを演じる
言わずと知れたフランスの大女優、サラ・ベルナール。彼女もサロメを演じています。
作者のワイルド氏をして「世界中でサロメを演じることのできる唯一の女優は、サラ・ベルナールである」と言わしめるほど。
ワイルド氏はサラのためにサロメを書いたのではないか?との憶測すら飛んだとか。
↑ワイルド氏本人が否定しています。
アルフォンス・ミュシャの描いたサロメがステキ過ぎる
サロメの絵というとビアズリーの挿絵があまりにも有名ですが、ミュシャの描いたサロメもとても素敵です。
画像は載せられませんが、「サロメ ミュシャ」でぜひ検索してみてください。
頭のターバン?とヴェールが薄い青の同一色で、肩の布の薄ピンク色との対比がいいですね。
そしてヴェールの胸元からお腹にかけてのグラデーションがとても綺麗。
セクシーな衣装ですがいやらしさを感じさせません。
サロメではないですが、上の絵は、ミュシャが描いた有名なポスター。
絵の女性は主演のサラ・ベルナールです。
サラ・ベルナールと言えばミュシャの絵を思い浮かべる人も多いはず。
むしろサラ本人の写真よりミュシャの絵の方が有名なのでは?というくらいですよね。
日本での広がり
サロメをいち早く日本に紹介したのは森鴎外の翻訳で、1909年(明治42年)。
彼の翻訳により、日本にサロメが広く知れ渡ります。
日本での初上演は1913年(大正2年)ですが、昭和中期には三島由紀夫の演出でも上映されています。
まとめ
オスカー・ワイルド氏の戯曲「サロメ」についてご紹介しました。いかがでしたでしょうか?
かなり詳しくご説明しましたが、この戯曲の一番素晴らしいところである、ワイルド氏特有の比喩を多用したセリフの豊かさには、このページではあまり触れていません。
気になる方はぜひ「サロメ」を手にとってみてくださいね。
最期までお読みいただきありがとうございました。
もじうみでした。
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